解体の進む航空本部等地下壕東側入口の状況と保存の会からのメッセージ
(2013年5月1日現在)

※定期見学会のエリアは慶應義塾敷地内のため整備されています。

日吉に来た海軍

 初めて日吉に海軍が来たのは軍令部第三部で、1944年3月、慶應義塾大学日吉キャンパス第一校舎に入り、敵国情報を収集分析していた。
 同年7月にサイパン島が陥落すると、日吉台国民学校も学童疎開を余儀なくされ、学校は子どもたちが出て行った後に海軍省人事局功績調査部が入り兵舎にかわった。
 次いでそれまで慶應の学生が使っていた寄宿舎が連合艦隊司令部として使われ、その地下に作戦室や司令長官室などを含む連合艦隊司令部地下壕が作られ、続いて海軍省人事局・航空本部の地下壕が構築されていった。
 45年の1月になると艦政本部地下壕が掘られ、日吉の街は海軍の軍人や軍の施設を作る作業員がきて、さながら軍都の様相を呈していった。
 日吉の街は三度にわたる空襲の被害を受けた。


連合艦隊司令部

 戦況が悪化する中で連合艦隊司令部が旗艦大淀から慶應義塾日吉キャンパスにある寄宿舎に入ったのは1944年9月29日であった。
 司令部地下壕はまだ建設中で、一部使用可能になったのは11月になってからであった。
 10月の「台湾沖航空戦」「レイテ沖海戦」の作戦命令、45年4月6日の戦艦「大和」の出撃命令などはこの日吉の司令部から発せられた。


連合艦隊司令部が入った寄宿舎



連合艦隊指令部地下壕入坑部



通路



バッテリー室



地上作戦室に通ずる階段跡




連合艦隊司令部地下作戦室



地下発電室



消音器室



地下壕東側入坑部の一部

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